ta-tinGの片田舎で思うこと

四国の片田舎で暮らすGさん感じることを綴っています。

手土産

私は現在生まれ育った土地で暮らしてますが、18歳高校を卒業して

故郷を離れて、関西の企業に就職をして45年間、その会社に勤めていました。

 

盆、正月には実家に帰るようにしてましたが、私の勤めてる会社は旅行会社で

会社自体、お盆休みはありませんでした。

みんな、お盆を前後にして交代でお休みを取るようにしてましたので、

私は9月に祝日と土日をくっ付けて休みを取ってました。

 

またお正月は会社自体は休みになるのですが、募集物のツアーがお正月は

あるので若い頃は添乗に出ていました。年末年始添乗に行くと

添乗日当の他に酒肴料という手当もありましたね。

 

ですのでお正月も帰省せず、そのあとで帰っていました。

 

大体年に2回は帰省していましたよ。

 

「手土産」ですねー、故郷には親戚がいますよね。

 

父親は8人兄弟の下から3番目、2番目の姉と長男が故郷にはいます。

母親は5人兄弟の末っ子、長男、次男、長女がいました。

母親方の長男、次男は当時はもう亡くなっていましたが、従兄弟とか

義叔母はいましたので、実家の近所には5軒の親戚がいました。

 

就職した当時は私も働いているという

アピールをするためにも親戚にお土産を届けてましたが、母は両親がまだ健在なので「お前が気を使わなくてもいい」と言ってました。

私もその言葉に甘えて、自分の家と帰省したら必ず一緒に呑んだりする従兄の家くらいにお土産を渡してました。

 

私が子供の頃、私の家では毎年大みそかに「お客」、高知県でいうところの宴会を

開いてました。

 

その時に父、母の親戚筋を呼んで酒宴をしてましたね。

夕方5時ころに始まって紅白歌合戦が始まって1時間ぐらいすると、

叔母達が迎えに来てお開きになるパターンでした。

 

私はまだ子供でしたので、もちろんお酒飲むこともなく、隣の部屋でTVを

見てました。

ただ次の日がお正月ということで、ついでにお年玉をくれる親戚がいて

結構私はこの日を楽しみにしていました。

 

私の住んでいた地区では、こんな感じの「お客」が大みそかから

お正月にかけて開いていたようです。

 

それもいつからか中止になりました。私が家を出てから5~6年経った頃の

ようです。

 

ここの地区は近海漁業をしている漁師がほとんどで、そのころから

不漁が何年か続いたために中止にしたようです。

 

私が34歳の時、母が亡くなって、父が一人暮らしになってからは、

多分親戚の人達の世話になっていると思って、

またお土産を持って帰省するようになりました。

 

特にすぐ近くに住む、父の姉は良く夕飯のおかずを持って来てくれてました。

その叔母も亡くなりましたが、義叔父の所には帰る度にお土産を持ってお線香をあげてました。

 

また、逆に実家から大阪に戻る時には

大阪にいた父の弟の叔父に土産を持って行き、実家での近況などを話してましたね。

私が定年を迎えて、高知市内まで戻って、再雇用で働き出したころは、

私の父も亡くなって、親戚で叔父、叔母は皆んな亡くなりましたが、従兄弟達がいますので、実家に帰るときには、お土産をもってお線香をあげてました。

私が実家に戻ってからは、お土産を持って行くことはないですが、お盆にお供え物を持って行くくらいですかね。

また従兄弟達もお盆には来てくれています。

最近では、私が年に3〜4回くらい大阪に行って飲んだりする時に手土産としてちょっとした物を持っていきます。

昨年秋には元会社関係の友達が高知へ遊びにきた時に食べた「じゃこ味噌」が

美味しかったと言ってとので、今年大阪で飲んだ時にそれをスーパーで買って

手土産として持っていきましたね。

 

「お土産」と「手土産」違いはそんなに無いように思いますが、気を使わない友達なんかに気軽に渡せるのが「手土産」ですかね。

 

今年は夏場に隣の愛媛県ソフトテニスの大会がありましたので、

前日に愛媛県宇和島に住んでいる兄の家に泊まらせていただいたのですが、

兄は故郷で取れた魚が大好きなので、私がスーパーでめじか(宗田鰹)の生節と

鯖の干物におじゃこなどを手土産として持っていきました。値札を貼ったものも

ありましたね。大した額ではないので気にしていません。

兄のところに娘とかその子供(兄の孫)とかが一緒にいるんであれば、

お土産としてお菓子などを持っていったかなと思います。

 

手土産と土産の違いはこんなところですかね。